北の富士勝昭の現在は?2026年に振り返る第52代横綱の功績と名解説を徹底解説
北の富士勝昭は、どんな横綱だったのか。現役時代には第52代横綱として幕内優勝10回を記録し、引退後は千代の富士、北勝海という2人の横綱を育てた名親方となった。さらに、NHK大相撲中継では歯に衣着せぬ辛口解説で人気を集め、力士の技術だけでなく、土俵上の振る舞いや勝負への姿勢にも鋭く切り込んだ人物だ。
2026年現在、北の富士勝昭さんはすでに故人であり、2024年11月12日に82歳で逝去している。日本相撲協会の公式プロフィールや当時の報道をたどると、28勝17敗という成績での大関昇進、1982年の不祥事と処分、白鵬への辛口コメントなど、華やかな実績だけでは語れない一面も浮かび上がる。現役時代から晩年までを時系列で整理し、その功績と人物像を振り返る。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 横綱としての実績:第52代横綱として幕内優勝10回、生涯戦歴786勝427敗69休を記録した。
- 意外な大関昇進:直前3場所は合計28勝17敗。それでも番付事情などを背景に昇進が決まり、本人も予想していなかったと伝えられる。
- 解説者としての功績:千代の富士と北勝海を育てた指導者であり、NHK中継では鋭い観察眼とユーモアを兼ね備えた解説で親しまれた。
【北の富士勝昭はどんな横綱だったのか】本名・経歴・現役時代の実績
北の富士勝昭は、1942年3月28日生まれ。日本相撲協会の公式プロフィールでは北海道旭川市出身とされ、本名は竹沢勝昭(たけざわ・かつあき)と記載されている。資料によっては「竹澤」と表記されることもあるが、協会の公式プロフィールに掲載されている表記は「竹沢」だ。
1957年1月場所に初土俵を踏み、出羽海部屋で力士としてのキャリアをスタートさせた。しこ名は竹沢、竹美山、北の冨士を経て、最終的に北の富士となった。大関昇進後には、師と仰いだ元横綱・千代の山が出羽海部屋から独立して九重部屋を興したことに伴い、同部屋へ移籍している。
北の富士の魅力は、長身を生かした攻撃的な相撲と、勝負どころで見せるスピードにあった。日本相撲協会の公式記録に掲載されている得意技は左四つ、外掛け、上手投げ。突っ張りや寄りも持ち味とし、相手に十分な形を作らせる前に攻め切る相撲を得意とした。
1967年3月場所では、九重部屋へ移籍して間もない時期に幕内最高優勝を達成。玉の海とともに横綱へ昇進すると、両者が活躍した時代は「北玉時代」と呼ばれた。1970年代前半の大相撲を彩った横綱の一人であり、優勝回数だけでなく、攻めの速さと土俵上の華やかさでも記憶されている。
日本相撲協会の公式プロフィールによる主な記録は次のとおりだ。
- 生年月日:1942年3月28日
- 没年月日:2024年11月12日
- 最高位:第52代横綱
- 横綱在位:1970年3月場所~1974年7月場所
- 幕内最高優勝:10回
- 生涯戦歴:786勝427敗69休(105場所)
- 幕内戦歴:592勝294敗62休(64場所)
- 現役引退:1974年7月場所
幕内優勝10回のうち、3回は全勝優勝だった。横綱としての在位は27場所で、歴代の優勝回数上位横綱と単純に数字だけを比べれば、さらに多くの優勝を重ねた力士もいる。しかし、北の富士の価値は優勝回数だけでは測れない。自身が横綱として活躍しただけでなく、引退後に次代を担う横綱を育て、さらに放送を通じて相撲の見どころを伝え続けた点に、独自の存在感がある。

【年表で整理】大関昇進から横綱引退、2024年の逝去まで
北の富士勝昭の生涯を理解するうえでは、力士としての出世、親方としての指導、協会幹部としての活動、そしてNHK解説者としての第二のキャリアを分けて見るとわかりやすい。日本相撲協会の公式プロフィール、日刊スポーツの回顧記事、訃報報道などをもとに、主要な節目を整理した。
| 時期 | 出来事 | 意味・実績 |
|---|---|---|
| 1957年1月 | 初土俵 | 出羽海部屋で力士生活を始める。 |
| 1964年1月 | 新入幕 | 幕内力士として本格的に活躍する。 |
| 1966年7月場所後 | 大関昇進決定 | 直前3場所の成績は合計28勝17敗。 |
| 1967年3月 | 幕内初優勝 | 九重部屋への移籍後、初の幕内最高優勝を達成。 |
| 1970年3月 | 横綱在位開始 | 第52代横綱として土俵に上がる。 |
| 1974年7月場所 | 現役引退 | 横綱としての土俵生活を終える。 |
| 1977年 | 九重部屋を継承 | 千代の富士、北勝海らを指導する立場となる。 |
| 1982年 | 協会の処分を受ける | 千代の富士の結婚式をめぐる問題で審判委員に降格。 |
| 1986年以降 | 協会理事などを歴任 | 審判部長、広報部長などを務める。 |
| 1996年 | 巡業部長を兼任 | 広報部長との兼任で巡業運営にも携わる。 |
| 1998年1月 | 日本相撲協会を退職 | 同年春場所からNHK大相撲中継の解説者として活動。 |
| 2023年~2024年 | NHK解説を長期欠席 | 体調不良による療養が報じられる。 |
| 2024年11月12日 | 82歳で逝去 | 現役、指導者、解説者としての長い歩みに幕を下ろす。 |
この年表からわかるのは、北の富士が現役引退後も長く相撲界に影響を与え続けたことだ。力士としての活動は1974年に終わったが、親方、協会幹部、解説者と役割を変えながら、1998年以降もテレビやラジオを通じて大相撲を伝えた。
2024年には、長く続いたNHK中継への出演が途絶えたことも話題となった。日刊スポーツなどの報道によれば、2023年春場所から解説の欠席が続き、2024年7月には約1年半ぶりにVTRで姿を見せたものの、同年9月場所には再び出演を休んでいた。その後、11月12日に82歳で亡くなったことが伝えられた。
2026年現在の北の富士は、現役の親方や解説者として活動しているわけではない。残された相撲記録、放送映像、関係者の証言や回顧録を通じて、その歩みが振り返られている。
【28勝17敗でなぜ昇進?】北の富士の大関昇進に隠された事情
北の富士の経歴で特に意外性があるのが、大関昇進の経緯だ。1966年7月場所後に大関昇進が決まったが、直前3場所の成績は8勝7敗、10勝5敗、10勝5敗の合計28勝17敗だった。
15日制が定着した1949年5月場所以降、この28勝17敗という数字は、北葉山と並ぶ低い水準の大関昇進例として知られる。現在の大関昇進では、三役で直近3場所合計33勝前後が目安として語られることが多い。その数字と比べると、北の富士の昇進は異例に映る。
ただし、相撲協会には大関昇進を決めるための明文化された内規が現在も一律の数字として存在するわけではなく、当時も勝ち星だけで判断していたわけではない。日刊スポーツの回顧記事では、相撲内容や番付編成上のバランスなども含めて総合的に判断される仕組みが説明されている。
北の富士の昇進当時は、豊山(初代)が一人大関という番付事情もあった。大関の人数を含む番付全体の構成も判断材料となり、北の富士の昇進が決まったとされる。単に28勝という数字だけで昇進の是非を判断するのではなく、当時の番付と昇進基準を合わせて考える必要がある。
さらに興味深いのは、本人も昇進を予想していなかったことだ。日刊スポーツの連載記事によると、昇進伝達式の朝、北の富士は熟睡しており、部屋の床山に起こされて初めて大関昇進を知らされたという。
部屋側も昇進を想定していなかったため、伝達式に必要な紋付や足袋が用意されていなかった。紋付は兄弟子の横綱・佐田の山から、足袋は柏戸から借りて、どうにか式に間に合わせたと伝えられている。本来立ち会うべき師匠の出羽海夫妻も不在で、佐田の山が師匠代理として立ち会うという異例の伝達式になった。
このエピソードは、北の富士の昇進が本人にも部屋にも予想外だったことを象徴している。一方で、昇進後には実力を示し、1967年3月場所の幕内初優勝を経て1970年には横綱へ昇進した。大関昇進時の成績だけを切り取れば異例でも、その後の実績が横綱としての評価を支えている。

【横綱としての功績】得意技と北玉時代、千代の富士を育てた指導力
北の富士の現役時代を語るうえで外せないのが、攻撃的な相撲と玉の海との競争だ。左四つからの寄り、上手投げ、外掛けなどを武器に、相手の体勢を崩して勝負を決める。突っ張りから攻めを組み立てることもあり、攻守の切り替えが速い相撲を見せた。
横綱在位は1970年3月場所から1974年7月場所までの27場所。幕内優勝は通算10回に達し、うち3回は全勝優勝だった。生涯戦歴は786勝427敗69休、幕内戦歴は592勝294敗62休。これらは日本相撲協会の公式プロフィールに記載された記録である。
北の富士の横綱としての評価を考える際、玉の海との「北玉時代」は重要なキーワードになる。両者は同じ時代に横綱として活躍し、優勝争いを通じて大相撲を盛り上げた。北の富士の持ち味は、相手の動きを見ながら攻めを選択する柔軟さと、ここぞという場面で勝負を決める切れ味にあった。
もっとも、北の富士の最大の功績は、自身の優勝回数だけにとどまらない。引退後は指導者として、のちに第58代横綱となる千代の富士と、第61代横綱となる北勝海を育てた。特に千代の富士は、相撲の取り口を磨き上げながら横綱へと成長し、昭和後期の大相撲を代表する力士となった。
2025年1月にNHKが放送した追悼企画では、北の富士が弟子について「弟子とよく遊んだね」と振り返り、続けて「その代わりによく稽古したよ」と語った過去の映像が紹介された。厳しい稽古だけでなく、弟子との関係を大切にしていたことがうかがえる言葉だ。
北の富士の人物像は、土俵上の勝負師という一面だけでは捉えきれない。現役時代には自ら横綱として実績を残し、親方としては弟子を横綱に育て、協会幹部として相撲界の運営にも携わった。競技者としての成功を、次世代の育成へとつないだ点が、歴代横綱の中でも際立つ功績といえる。
【不祥事の経緯を検証】千代の富士の結婚式と日本相撲協会での役職
北の富士の経歴には、華やかな実績と並んで複数の不祥事も記録されている。人物を評価する際には、功績だけを強調するのでも、問題だけを切り取るのでもなく、当時何が起き、どのような処分が下されたのかを分けて見る必要がある。
日刊スポーツの訃報後の回顧記事によると、1965年の夏場所前には、大鵬や柏戸らとともに拳銃の不法所持をめぐって書類送検され、北の富士はけん責処分を受けた。また、1971年の九州場所では、力士会会長として警察署へのあいさつに同行した後援者が右翼的政治団体に所属していたことが問題となり、戒告処分を受けたとされる。
さらに大きな問題となったのが、1982年の千代の富士の結婚披露宴だ。1982年9月30日に行われた披露宴に反社会的団体関係者が出席していたことが問題視され、北の富士は師匠として責任を問われた。審判部副部長から審判委員への降格処分を受け、九州場所では謹慎したと報じられている。
この件で重要なのは、問題の対象が千代の富士本人の相撲成績ではなく、師匠としての交際関係と管理責任だったことだ。力士の師匠は、稽古や技術指導だけでなく、弟子の社会的な立場や部屋の対外関係にも責任を負う。人気力士の結婚式という公の場での出来事は、協会幹部としての北の富士の責任にも直結した。
その後、北の富士は審判部副部長に復帰し、1986年には協会理事に就任。長く審判部長を務めた後、1994年には新設された広報部長に就いた。1996年には二子山の巡業部長解任に伴い、広報部長と巡業部長を兼任することになった。
広報部長時代の仕事について、北の富士は2016年のインタビューで、当時は映像を提供して収益を得ることに重点が置かれ、インターネットを扱える人材もほとんどいなかったと振り返っている。協会の広報活動が現在のデジタル発信とは大きく異なっていた時代の証言だ。
1998年1月に日本相撲協会を退職すると、同年春場所からNHK大相撲中継の解説者として活動を始めた。協会内部での経験は、取組の技術的な見方だけでなく、力士の置かれた環境や相撲界の仕組みを語る際にも生きたと考えられる。
北の富士の不祥事を振り返ると、功績の大きさと同時に、協会の幹部や師匠に求められる社会的責任の重さも見えてくる。処分を受けた事実を曖昧にせず、その後の役職復帰や相撲界への貢献と併せて評価することが、人物像を立体的に理解するうえで欠かせない。

【名解説と名言】白鵬への辛口コメントが今も語り継がれる理由
北の富士勝昭が現役時代を知らない世代にも広く知られるようになった理由の一つが、NHK大相撲中継での解説だ。技術面を的確に説明する一方、力士の振る舞いに疑問があれば遠慮なく指摘する。言葉の選び方にはユーモアがあり、厳しいコメントでも単なる悪口に終わらないところが特徴だった。
象徴的な例が、2015年5月場所12日目の白鵬と豪栄道の一番である。豪栄道は首投げで白鵬を破った。勝負は土俵際までもつれたが、白鵬の右肘が先に土俵外についたと報じられ、物言いはつかなかった。
敗れた白鵬は取組後、土俵上で礼をせず、土俵下でもしばらく立ち尽くした。NHK中継の解説を務めていた北の富士は、この場面について「物言いが付いたとしても確認程度。子供でも分かるんじゃないですか」とコメントした。日刊スポーツは当時、この発言を報じている。
このコメントが注目された背景には、白鵬と審判部の間で起きていた一連のやり取りがある。2015年1月場所では、白鵬と稀勢の里の取組が同体取り直しとなり、白鵬は場所後に判定への不満を表明していた。5月の一番で北の富士が同じ「子供でも分かる」という趣旨の言葉を使ったことは、白鵬の態度に対する強い皮肉として受け止められた。
ただし、この発言を単なる白鵬批判として読むだけでは、北の富士の解説の本質を見誤る。彼が重視していたのは、勝敗の判定だけでなく、負けた後の振る舞いや、横綱に求められる姿勢だった。技術に加えて礼節や責任を語るからこそ、解説に説得力が生まれていた。
もう一つ有名なのが、2009年春場所の栃煌山と把瑠都の取組をめぐる「シャケじゃないんだから」というコメントだ。栃煌山が無抵抗のままつり出された場面で発せられた言葉は、独特のユーモアによって広く知られるようになった。2020年には、解説デビューした清見潟親方(元栃煌山)に対して、北の富士が当時の発言を謝罪し、「あなたは真面目でいい力士でした」と評価する場面もあったと日刊スポーツが報じている。
このエピソードからは、北の富士の辛口解説が必ずしも相手を否定するためのものではなかったことがわかる。厳しい言葉を残しながらも、長い時間を経て本人に謝罪し、力士としての努力を認める。そこには、勝負への厳しさと相撲人への敬意が同居していた。
2026年1月には、長年NHKで実況を務めた藤井康生が、北の富士との思い出を振り返る書籍『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』を刊行した。集英社の書籍紹介では、現役時代、親方時代、解説者時代を振り返る内容と、舞の海秀平との対談が紹介されている。逝去から時間がたった今も、北の富士の言葉と放送席での存在感が振り返られていることを示す一冊だ。
北の富士の解説が長く愛された理由は、言葉が強かったからだけではない。相撲をよく見ていること、力士の長所と短所を具体的に捉えていること、そして視聴者が感じた疑問をわかりやすく言語化する力があった。厳しさと親しみやすさの両立が、独自の解説スタイルを形づくっていた。
【プロの結論】北の富士勝昭の評価は優勝回数だけでは決まらない
北の富士勝昭の評価を考えるなら、少なくとも三つの軸を分けて見る必要がある。第一は、横綱としての競技実績。第二は、千代の富士と北勝海を育てた指導者としての成果。第三は、協会幹部と解説者として相撲界に残した影響だ。
競技実績では、幕内優勝10回、横綱在位27場所という数字が基礎になる。歴代横綱を優勝回数だけで比較すると、より多くの優勝を重ねた力士との差が見える。しかし、北玉時代を形成した一人としての存在感や、全勝優勝3回という実績、攻撃的な相撲の魅力も評価に含める必要がある。
指導者としては、千代の富士と北勝海という2人の横綱を育てた功績が大きい。自分自身が横綱として成功した経験を、次世代の育成に生かした。現役時代の実績がそのまま指導者としての成功を保証するわけではないだけに、2人の横綱を輩出したことは、北の富士の相撲を見る目と指導力を考える重要な材料となる。
一方で、協会幹部時代の不祥事や処分も、人物評価から切り離せない。拳銃不法所持をめぐる書類送検、後援者との関係をめぐる戒告、千代の富士の結婚式をめぐる降格処分は、いずれも記録に残る出来事だ。功績が大きいからといって問題をなかったことにはできず、逆に不祥事だけで全生涯を否定するのも適切ではない。
解説者としての価値は、専門知識を視聴者の日常語に置き換える能力にあった。相撲の勝敗を分析するだけでなく、横綱の品格や力士の姿勢にも踏み込み、時には笑いを交えながら伝えた。2026年に回顧録が刊行されたことも、北の富士の評価が現役時代の記録だけで完結していないことを物語っている。
北の富士勝昭を理解するうえで有効なのは、優勝回数、横綱在位、育てた弟子、協会での役職、解説で残した言葉、そして不祥事と処分をそれぞれ確認することだ。これらを合わせて見ると、華やかな横綱であり、優れた指導者であり、率直な語り口で相撲を伝えた人物であると同時に、組織の責任を問われた一面も持つことがわかる。
【北の富士勝昭】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:北の富士勝昭は現在どうしていますか?
A1:北の富士勝昭さんは2024年11月12日に82歳で亡くなっています。2026年現在は、現役の親方や解説者として活動しているわけではありません。日本相撲協会の公式記録やNHKの追悼映像、2026年刊行の回顧書籍などを通じて、その功績が振り返られています。
Q2:北の富士勝昭はなぜ28勝17敗で大関に昇進できたのですか?
A2:1966年7月場所後、直前3場所が8勝7敗、10勝5敗、10勝5敗で合計28勝17敗でした。当時の番付事情や相撲内容などを踏まえ、総合的に昇進が判断されたとされています。当時は豊山(初代)が一人大関という状況もあり、本人も昇進を予想していなかったと伝えられています。
Q3:北の富士勝昭はどのような功績を残しましたか?
A3:第52代横綱として幕内優勝10回を記録し、引退後は九重部屋の師匠として千代の富士と北勝海の2横綱を育てました。日本相撲協会では審判部長や広報部長などを務め、退職後はNHK大相撲中継の解説者として長く活躍しました。
まとめ:北の富士勝昭が相撲界に残したもの
北の富士勝昭は、現役時代に第52代横綱として幕内優勝10回を記録し、引退後は千代の富士と北勝海を育てた名親方となった。さらに、NHK大相撲中継では鋭い分析とユーモアを交えた解説で人気を集め、相撲を競技としてだけでなく、人間の勝負として伝えた人物でもある。
大関昇進時の28勝17敗という異例の数字、千代の富士の結婚式をめぐる処分、白鵬への辛口コメントなど、北の富士の人生には意外な側面も多い。そうした事実を、功績と問題の両方から捉えることで、横綱としての強さ、指導者としての成果、解説者としての魅力がより明確になる。
2026年現在、北の富士はすでにこの世を去ったが、残した記録や言葉、育てた弟子たちの活躍は相撲史の中に生き続けている。歴代横綱を比較する際にも、優勝回数だけでなく、後進の育成や大相撲の伝え方に与えた影響まで含めて評価することが、北の富士勝昭という人物を理解するための大切な視点となる。 (出典: 北 の 富士 勝昭(Yahoo!ニュース))